(1)はじめに
今回、東三河鈴木政経塾の域外研修として、インド講座を実施した。主たる目的は、スズキ株式会社(以下、スズキ社)のインドにおける工場を見学し、鈴木修会長のお話を伺うこと。もともと、政経塾塾長である鈴木克昌前衆議院議員が、スズキ社の鈴木修会長と旧知の仲であったことから、今回の企画が実現した。今回の講座に限っては、塾生のみならず、塾生でない方にも参加の門戸を開いた。スズキ社に関係のある会社経営者だけでなく、建設業や食品業、農業や人材派遣業、NPOなど多彩な業界から、様々な世代の総勢27名が参加した。
インドは人口は12億人で日本の約10倍、面積も日本の約9倍で、日本からすると何もかも規模が大きく見える。これからの経済成長も大きく期待されている。実際に訪れてみて、東京や名古屋のような、現代的な高層ビルがそびえるような街並みが続くかと思えば、舗装されていない路地があったり、高速道路の高架下にはいわゆるスラム街が形成されていたりする。農村部に出れば、いまだに手作業で田植えをしているような光景も見られ、短い期間ではあったが、インドの多様な現状を垣間見たように感じている。
本報告では、6日間にわたる今回のインド講座の主な行程を振り返りながら、私自身の所感を交えて、印象に残ったできごとなどを紹介したい。
なお最初に誤解のないように述べておくが、今回私は、この研修には個人として参加し、また、研修費用に「政務活動費」を用いていない。私自身が市議会議員という立場であることから、「今回の研修は「政務活動費」から支出されているのか」といった趣旨の質問を、研修期間中にも何度となく受けた。折に触れて話題になる議員の「政務活動費」だが、みなさんが疑問をもつのもごく自然なことであろう。議員の視察などの活動に、「政務活動費」が使われていることもよく知られている。今回の研修にも使えるのではないか、と考えられることも当然だろうと思う。
だが、正確に言うと、今回の研修に「政務活動費」を用いることはできない。
蒲郡市議会議員の政務活動費は、条例によって「市政の課題及び市民の意思を把握し、市政に反映させる活動」でなければ支出することができない、と定められている。今回の研修は、私自身の経験として、大変貴重・重要なものであり、今後の議員活動にも活かしていける内容であったことは間違いないが、「蒲郡市政に関係する内容であったか」と問われれば、少なくとも直接的に関係する内容であったとは言い難い。
また、蒲郡市議会における政務活動費は、議員個人ではなく所属する会派というグループに対して支給されるため、今回私が個人として参加した研修は、会派としての研修ではないため、やはり対象外ということになる。
なお、政務活動費を利用した議員の国内外の視察の報告があまりに粗雑で、インターネット上の文書を切り貼りしたものが、そのまま流用され提出されていたという事例も、たびたび報じられているが、今回の私の報告は、私自身が執筆した未発表のオリジナル原稿であり、断じて盗作・剽窃などではないことも、念のため付記しておく(なお、主要な参考文献は本文末尾にまとめて掲載している)。
(2)スズキ社とインド
まず、スズキ社とインドの関係についてまとめておきたい。
スズキ社がインドに進出したのは今から30年以上も前の1982年のこと。当時、インド政府は新たな「国民車」を生産するため、海外の様々な自動車メーカーを回り、合弁できる相手先を模索していた。スズキ社は当初、この動きを重要視しておらず、気づいたときには、インド政府に対する申し出の締め切りを超過していた。しかし、「断られてから営業が始まる」と言う鈴木修社長(当時)の熱意がインド政府に伝わり、他の自動車メーカーを押しのけて、インド政府と合弁することとなった(マルチ・ウドヨグ社にスズキ株式会社が出資して参画した)。インド政府が小型車を求めていたことと、小型車の豊富なノウハウをスズキ社が有していたことが有利に働いた。
スズキ社は単なる技術協力だけではなく、工場経営のノウハウや人づくり、従業員への教育など、スズキ流の経営手法と労働文化をインドに持ち込んだ。個室や衝立のない大部屋オフィスとしたことや、経営トップから生産現場まで同じ制服を着用するとしたこと、同じ食堂で同じ昼食をとるようにしたことなどは、その代表的な事例としてインドではよく知られている。
合弁契約の調印から1年2カ月後には生産を開始。1983年にはいよいよ国民車「マルチ800」が発表された(「マルチ800」は日本における「アルト」を原型とし、インド向けにカスタマイズされたモデル)。この「マルチ800」は空前の大ヒットを記録。予約が殺到し、納車待ちが数カ月も続くという状況であった。
その後、1992年には、インド政府の経済自由化を受けて、合弁会社への出資比率を引き上げ、2002年には完全子会社化。2007年にはさらに出資比率を引き上げ、マルチ・ウドヨグ社から、マルチ・スズキ・インディア社へと社名を変更した。2014年にはインド西部のグジャラート州に100%出資の新会社を設立し、新たに工場を建設。今年初めに第2工場が稼働を開始し、現在、第3工場が建設中である。
工場の建設・拡大に合わせて販売店数も着実に伸ばし、現在までに3,000店に迫る勢いにある。インドにはすでに世界の各自動車メーカーが進出しているが、各メーカーの販売店数の総合計を、スズキ社単独ではるかに上回る規模であることに驚きを禁じ得ない。
こうした30年にも及ぶ、着実な歩みを進めてきた結果として、現在のスズキ社のインド市場におけるシェアは、乗用車で50%を誇る圧倒的優位にあり、他社の追随を許さない独走態勢にある(第2位は韓国の現代自動車で16%、なお、ホンダは5位で5.4%、トヨタは6位で4.5%という状況にある(インド自動車工業会2019年3月度レポートより))。
インドの自動車市場は、1位の中国(2,496万台)、2位のアメリカ(609万台)、3位の日本(438万台)に次いで、4位のドイツ(344万台)に迫る勢いの322万台という水準に達している。遠くない将来、ドイツや日本を追い越すと見込まれているだけでなく、人口規模もやがて世界一となることが確実であることから、世界で最大の自動車市場となる可能性が高い(販売台数は2017年。国際自動車工業会の資料より。)
そうした中、スズキ社はインド市場におけるシェア50%を今後も維持していく計画で、現在の年間生産台数の上限である180万台から、500万台の生産ができる規模まで、生産体制と販売網を拡大していくという。
インドの自動車市場は、現在も小型車が主力で市場の70%を占めているが、私見によれば、徐々に中型車へと移行していくのではないかと思われる。また、インドの都市部においては、排ガス問題が深刻で、環境への対応ーハイブリッドやEV(電気自動車)への対応も急務である。スズキ社が圧倒的なシェアを維持できるかどうか、また、他社が入り込む余地があるとすれば、このトレンドの変化に対応できるか、という点が焦点ではないかと思われる。
(3)工場見学
・最新鋭の設備を誇るスズキ・モーター・グジャラート社の工場
今回見学させていただいた工場は2カ所。インド中部のグジャラート州にある、スズキ・モーター・グジャラート社の工場と、デリー近郊のグルガオン市に位置するマルチ・スズキ・インディア社のマネサール工場である。スズキ・モーター・グジャラート社は日本のスズキ株式会社が100%出資する子会社で、マルチ・スズキ・インディア社から生産委託を受けて、四輪車を生産している(スズキ車の販売はすべてマルチ・スズキ・インディア社が担う)。グジャラート工場では主にスイフト(スイフト・デザイアでインド向け仕様)と、インド向けの車種である「バレーノ」を生産し、マネサール工場ではアルト(インド向け仕様)とスイフト(スイフト・デザイアで、インド仕様)を主に生産している。ここではグジャラート工場の様子を紹介したい。
グジャラート工場は2014年に建設され、2017年から生産開始。2019年1月からは第2工場が稼働している。
(スズキ・モーター・グジャラート社のグジャラート工場の入口(バス車内より))
グジャラート工場は広大な農地に囲まれた中にある。周辺の道路にも牛や水牛がかっ歩するような環境で、実際に工場を建設する際も、野良牛(野良犬ではなく野良牛)を敷地から追い出すところから作業が始まったとのことで、各社の工場が建ち並ぶような日本における工業団地のイメージとは、およそかけ離れている。だが、工場内には最新鋭の設備を導入しており、浜松市の湖西工場とほとんど同じ設備によって生産されている。インドにおいてもクオリティ重視の世界品質を保っているとのことであった。
(グジャラート工場を望む道路にも牛がかっ歩する(バス車内より))
私自身はこうした自動車工場を見学すること自体が初めての経験であったため、見るもの・聞くことすべてが大変新鮮に感じられた。組み立て以外の工程は、ほとんどがたくさんのロボットによる作業で自動化されていた。人よりも機敏で無駄のない正確な動き、効率性を最重要視してつくられた部品供給のシステムに終始圧倒された。
(グジャラート工場の敷地内にて(工場の建屋内での撮影は許可されなかったが、敷地内は撮影可))
グジャラート工場において、私たちが見学したのは今年の初めに稼働を始めた第2工場であったが、現在は第3工場が建設中であり、さらに拡大する余地も残されているという。また、トランスミッションとエンジンの工場と、ハイブリッド車の電池を生産する工場が敷地内に併設されているほか、いくつかの部品メーカーの工場が隣接しており、今後さらなる生産の拡大に臨むことができる体制が整っているとのことだった。
・工場の立地をめぐって
このグジャラート工場が位置しているのは、インド西端のグジャラート州で、インドの首都ニューデリーからは、国内線の飛行機でも1時間半かかる。さらに工場までは、アーメダバードの空港からバスに揺られて2時間半かかってようやくたどりつく。スズキ社としても、このような海外の地方都市(正確にはハンサルプールという村)にわざわざ進出した事例はないという。
首都のニューデリーやすでに工場があるグルガオンから離れているグジャラート州に、わざわざ工場を建設した理由はその立地にあるという。グジャラート州はインドの西端、デリーやグルガオンよりも港に近い。インドで生産されたスズキ車はインド国内で販売される他、中東やアフリカに向けて輸出もされる。今後、輸出の需要が高まってくることもあらかじめ見込んだ上で、グジャラート州に工場を建設することとしたという経緯がある。
だがしかし、広いインドに日本の感覚を持ち込んではいけないであろうことは重々承知しているが、グジャラート工場から最寄りの港であるムンドラ港までは、実は300キロの距離があり、私としては(あくまで日本の感覚で考えた場合だが)決して近い距離に工場があるとは思えない。
海のまち、港のまちである蒲郡市から300キロと言えば、ほとんど東京にたどりつくような距離であって、蒲郡で作ったものを東京から輸出するとか、東京で作ったものを蒲郡から輸出するなどといったことは、よほどの事情がない限り、考えられないのではないか・・・。もっともっと港に近いところはあったのではないか・・・。
そこで私は、質疑応答の際に、この距離の問題についてお伺いした。
いただいたお答えとしては、まず、①内陸のデリーやグルガオンよりはずっと港に近い(デリーから港までは1200キロ(東京ー福岡間程度の距離)離れている)という点、また、②港に近い工場だと、工場そのものが海水による塩害を受ける可能性があるという点、さらに、③300キロの距離があることで、よりタイムリーに完成車を船に積み込むことができる、ということであった。特に、3点目については、実際に「輸出」されるまでーすなわち、工場から完成車が出荷され、港に到着するまでの移動時間、さらに、船に積み込まれるまで港での待機日数が、それぞれ生じてしまう。とりわけ、港での待ち期間が長いと塩害の被害にあう可能性もあるわけだが、300キロの距離があることで、待ち時間を最小限に抑え、よりタイムリーに船に積み込むことができる、という話であった。
得心はできたような、しかし、やはり納得しがたい部分が残るような、何とも言えないというのが正直な印象であるが、工場も順調に稼働しているし、輸出もスムーズに運んでいるようなので、これで問題がないということなのであろう。
・工場の現場から考えるインドの労働者事情
質疑応答で複数の質問があったのが、工場で働く労働者、労働環境に関する内容であった。
グジャラート工場においては、工場における雇用がおおむね6,000人で、さらに請負や警備員などの雇用も含めると、1万人にも達する規模であるという。日本からの駐在と出張は、わずかに230人程度で、現地にもたらす雇用の規模の大きさが分かる。
ただし、6,000人の雇用も実は、その多くが「期間工」で、しか もその雇用期間はわずか7か月。日本では到底考えられない短期間である。
日本における雇用慣行の視点から考えると、「なぜそのような短期で雇い止めなのか」と疑問を持つ向きも多いだろう。だが、単純に日本の感覚・慣行を持ち込んではならないと思う。
まず、インドの労働法制においては、解雇に関する規制が非常に強く、非管理職の労働者であっても、簡単に解雇することができないという前提を踏まえる必要がある。とりわけスズキ社のような大規模な事業所に対する規制は強く、具体的には、1年以上継続雇用されている場合(実質上は240日以上の労働がある場合)、解雇のためには事前に政府機関からの許可が必要で、その上で、3か月前に書面で本人に通知し、規定額の補償金を支払うこととなっており、この手続きを踏まなかった場合は、解雇自体が無効となる。また、解雇の有効性をめぐって労働紛争となった場合、労働審判所(日本における裁判所にあたる)が労働者に対して有利な判断を下すことが多いという。
7か月の「期間工」が有期雇用か、あるいは、労働者側からの(形式上の)自主退職としているかは判然としなかったが、解雇規制の対象となる、240日に達する前に雇用を終了させ、仮に法廷闘争に持ち込まれたとしても、労働者側が有利にならないよう、雇用期間を設定していると考えられる。
この点だけとらえれば、会社側の強い立場を利用して、使用者の都合を優先し、規制の抜け道をいくような運用とも言え、労働者の権利を顧みない雇用であるとの批判もできるかもしれないが、それではあまりにも現地の事情を無視しているだろう。
インドにおいては、現在も人口の約半数が農業に従事し、近代的な産業における工場労働に従事した経験のある人口が圧倒的に少ないという現状がある。今後、インドがさらなる経済発展を遂げていくためには、国外からの投資を呼び込む必要があるし、そのためには産業構造そのものを大きく変革させていく必要がある。とりわけ工業化を進めていく過程においては、一定の人口が工場労働に従事しなければならないであろうし、その経験を持つ人材を育成する必要もあるだろう。
担当者の弁を借りれば、たった7か月の期間工も「就労機会の創出になっている」「重要な職業訓練の場になっている」と言えるとのこと。スズキ社での経験を活かして、他の自動車メーカーで働いたり、賃金を貯めて進学の費用にしたりする場合などもあり、一概に批判はできないのではないかと思われた。
読者のみなさまはどうお感じであろうか?
また、本稿では深く立ち入らないが、日本で言うところの派遣社員も、近年インドにおいても増加を続けており(インドでは間接雇用、あるいは請負と呼ばれている)、とりわけここで述べたような解雇に関する規制は一切適用されないため(日本における派遣会社と同様、労働者は派遣会社と労働契約を結び、派遣先会社との雇用契約は存在しないため)、経営側としては実に「使いやすい」労働力となっている現状がある。今後、さらに増加を続けていくことが予測されるが、日本と似たような問題ー同じ労働に従事していても、派遣会社によって得られる賃金が異なること、正社員と派遣社員との賃金格差が大きいことーがすでに発生しており、とりわけインドの場合は労働争議が盛んである背景も踏まえ、より労働者の負担や不満が少ないルールづくりが急務であると言えよう。
(4)鈴木修会長講話
今回の講座のもうひとつのメイン企画は、鈴木修会長による講話であった。会長が定宿にしているデリー市内の高級ホテルにあるレストランで、会食しながらお話を伺った。以下、要約して報告する。
「当時、パキスタンなど他の国への進出も模索していた。また、日本では他の大手メーカーに押され、なかなかシェアを拡大できず、社員も自社に自信を持つことができていなかった。そうした中で、「小さな国でもいいから、とにかくどこかで1番になりたい」と思い、インドに進出した。その際、特に気をつけていたのは「現地の人に儲けていただく」ということ。現地の人たちと、共に歩む姿勢でこれまでも続けてきた。」
「インドへの進出は大変な決断であったが、昭和37年に豊川工場を建設したとき、国道1号線の豊橋ー浜松間は未舗装であった。インドでも同じようなもので、工場を作ろうとすると、牛が出てくる。似たような経験、二重に経験したようなもので、それほど大変ではなかった。」
会長のご意向で、参加者との懇談の時間を長く取りたいとのことで、以後の時間は席替えをしながらの会食となった。私自身は、鈴木修会長とは蒲郡のことについて話題提供をさせていただいた。また、これまでゆっくり話す時間の取れなかった他の参加者の方々とも、懇親を深める大変良い時間となった。
(5)インド事情雑感
・インドでの英語が通じない件
英国による植民地政策の影響で、インドにおいては準公用語として英語が広く使われている。但し、インド英語と呼ばれるほどに、発音やイントネーションはアメリカやイギリスのそれとは大きく異なっている。学生時代に1年間のアメリカ留学を経験している私としては、今回は特段、語学面での心配はしていなかったが(もとより全日程にわたって日本語のできる通訳ガイドさんが同行してくださっていた)、残念ながら、そんな簡単な話ではなかった。早々に語学の壁に直面させられることとなった。
一例を挙げてみたい。空港での保安検査はインドでも例外なく厳しく、ポケットからものを出すだけでなく、ベルトを外す、時計を外す、また、一定量以上の液体は処分する、など、規定通りの対応が徹底され、長蛇の列となっていた(もちろんそのこと自体に大きな異議はない)。
私も規定を遵守し、検査に臨んだが、かばんの中身がひっかかった。検査の担当者がやってきて、こちらに何か話しかけてくる。「レプト、レプト。」何度聞いても「レプト、レプト」と繰り返す。
「(私の知っている限り)そのような英単語はない・・・」と思い、何のことを言っているか皆目見当が付かなかった。この担当者は英語ではなくヒンディー語を話しているのではないかと疑うほどであった。
しかし、程なくして同行者から、「パソコンを持ってないですか?」と聞かれ、即座に「レプト」が「laptop(ラップトップ=ノートパソコン)」であることを理解した。「パソコン」は英語ではないため通じないという事実は、留学してわりと早い段階で学び、「ラップトップ」という単語も知っていた。だが、この空港の現場では、英語力よりも旅慣れているかどうかが、図らずも重要であることが明らかになった。私はすぐに「パソコン」を取り出し、再検査してもらって無事に通過することができた。
「laptop(ラップトップ)」は「ラ」に強いアクセントがあり、2つの「プ」は、弱く発音するかもしくは省略されることもあるため、例えば、「ラプト」と言われていれば、おそらくすぐに理解できたであろうと思う。だが、「ラプト」が「レプト」になるとは想定を超えていた・・・。
ホテルでの英語は、アメリカ英語に近い発音で聞き取りやすく苦労はなかったが、空港やレストランなどでは、この件に限らず、発音の違いに難儀することばかりで、簡単な単語であっても、何度も聞き返さないと理解できないということが続いた。できるだけ、現地の人とコミュニケーションをしてみようと思っていた私は、積極的に英語で話しかけていたのだが、相手が私の質問を理解してくれても、私が相手の英語を理解できず、結果として、何度も聞き返すことが申し訳なく、日程の後半頃にはすっかり消極的になってしまっていた。残念ながら、5日間程度の滞在ではインド英語に慣れるまでには至らなかった。インド英語の難しさを甘く見ていたと言えるかもしれない。
・道路事情
インドの道路事情についても、ひとこと触れておきたい。
都市部では大方の道路は舗装されていると感じたが、いったん都市部を出ると、まだまだ舗装されていない道路が多い。また、これは都市部かどうかを問わず、舗装されていても、補修されていないーすなわち、でこぼこの道も少なくなく、全日程を通じても、決して走り心地、乗り心地がよいとは言い難かった。
(この道路、いったい何車線だろうか(デリー市内の光景、バス車内より))
また、写真をご覧いただきたいが、この道路には6台の車が並んでいる。6車線もある広い道路のようにも思われるが、本来は4車線であって、6車線ではない。このように、左右の車の間隔をぎりぎりまで詰めるー人が通れないぐらい本当にぎりぎりまで詰めるのが通常のようで、何度もぶつかるのではないか、こするのではないかと思わされた(実際に傷がついている車も多かったが)。また、車線変更や右左折も、思い切りがいいと言えば聞こえはよいが、なかば強引に、無理やり押し込むような感覚であった。私などはとても運転することなどできない。(加えて、ぶつかりそうになると、すぐにクラクションが鳴らされ、街中で朝から晩までクラクションが鳴り響き、騒々しいとしか言いようがなかった)。
なお、統計上、インド国内の乗用車は、2台に1台はスズキ車だが、現地での肌感覚としては、たしかにスズキ車が多いことは間違いない(同社の地元の浜松よりもたしかに多い)ものの、もう少し多様な車が走っていたという印象がある。実際に、トヨタやホンダはもちろん、ヒュンダイやアウディなどの「外国車」をはじめ、マヒンドラ、タタなどの国内メーカーの車もよく見られた。
ここから考えられるのは、普及している車種の地域差・地域格差であろう。今回訪れたのは都市部が中心で、所得水準も比較的高めの地域であったことから、多様な車が見られたが、他の地域ー農村地域や山間部などでは、また違った傾向があるだろうことが容易に想像できる。このあたりは、広いインドの様々な事情を、さらに深めてみたいところである。
・食事
今回の研修では、ホテルやレストランでの食事ばかりで、いずれも観光客向け(もしくは外国人向け)にアレンジされていた(と思われる)ことから、いわゆる「本場のインドの辛さ」のようなものを感じる料理に出会う機会は限られていた(現地の人向けのレストランの味つけは確かに辛かったが、辛いものが不得手な私からしても、全く食べられないという程ではなく、少し辛さがきつめの程度であったと感じている(辛さの度合いを文章で表現するのは難しい))。
味つけはアレンジされていても、食材は当然現地の食材で、お米はインディカ米であった。粘り気がなく細長いインディカ米で、約20年前に冷夏の米不足のために、緊急輸入されたタイ米よりもさらに細く長い。ただ、私にはインディカ米はどうしても最後まで合わなかったと言わなければならず残念だ。やはり日本で食べ慣れた食事にはかなわなかった。
辛い料理に合わせてか、ビールは(日本と比べて)薄めで大変飲みやすい味だった。「キングフィッシャー」というブランドで、日本で目にする機会は基本的には限られているものと思われる。若干だが旅程に追われ、ゆっくりとたしなむ時間がなかったため、今後の楽しみとして取っておきたいと思う。
(キングフィッシャーというブランドのビール。私は気に入った)
なお、工場見学で訪れたグジャラート州は州全体が禁酒で、観光客が飲酒するにも、事前に申請して許可を得る必要がある。許可を得ても、人前で飲むことは許されず、ホテルの個人の部屋の中でしか飲むことができない。当日の夕食でも、当然に酒類は提供されなかった。これは、インド建国の父、マハトマ・ガンディーがグジャラート州の出身であることにその理由がある。ガンディーは「酒は人々を堕落させる」と考えていたため、州全体で禁止されることとなった。どこまでこの規制が厳格に守られているか、今回の訪問では確認するすべもなかったが、インターネットのビジネス情報などを見ても、グジャラート州は禁酒であるため、勤勉な性格であることなども特長として示されており、ガンディーの思いは、制度を通じて今も守られているように感じられた。
・シンさんのこと
「旅先で出会った人たちの印象が、その国の印象を左右する」ということはよくある。今回私たちは、貸し切りバスでの移動時間が長かったため、現地の人との交流の機会は限られていた。しかしその分、すべての日程を同行してくれた通訳ガイドのシンさんの存在は非常に大きく、もはや私たちにとって、シンさん抜きには今回の研修は語れない・成り立たないと言ってもよいだろう。
私も海外旅行で日本語のできるガイドさんをお願いしたことがあるが、シンさんほど当意即妙で、かつユーモアのあふれるガイドさんに出会ったことはなかった。頭の回転が速く、1つ聞くと、10返ってくるような素晴らしい解説ぶりで、インドの現状の多くをシンさんから学ばせていただいた。ただまじめに解説するだけではない、ユーモアあふれるお話は聞いていて飽きない楽しい時間でさえあった。
シンさんはパンジャーブ州の出身で、苦学してデリー大学を卒業。経済学が専攻であったが、たまたま選択した外国語が日本語であったこと(学生も少なく、単位が取りやすそうだったとのこと)が、シンさんの人生を変えた。お話によると、30年以上前のことであるが、当時から日本語ができるガイドは希少で、学生の頃から、通訳を依頼されることが多かったという(現在でも「多くはない」とのこと)。いろいろな場での通訳を引き受けながら日本語の勉強を続け、「日本の人たちは親切だったから」、通訳を依頼した日本の人の側から、日本語を教えてもらうことも多かったという。
私も細々と語学の勉強を続けている身であるので、シンさんのような流暢な通訳ぶりには憧れるが、ここまでのレベルに到達する過程には、地味で地道な大変な努力の積み重ねがあったことは疑いがない。私も苦労しているので身にしみてよくわかる。そこで個人的に、語学の勉強の仕方についてお伺いすると、コツはやはり、何と言っても使うこと、しゃべることにあるという。「使わなければ、使えるようにならない。日本の人たちはそれが苦手かもしれないですね」と言われ、シンさんの積極的な性格も、語学力の向上に大きな役割を果たしているだろうとも感じられた。
おかげさまで大変充実した研修になった。ここに記して、改めて感謝の意を表し、再訪する機会があれば、ぜひともまたお話を伺いたい。
(5)まとめにかえて
通訳ガイドのシンさんも強調していたが、今回私が見聞きしたものがすべてのインドの現状を表しているわけではなく、あくまでも一部・一端に過ぎず、今回の研修だけで、およそインドの全体像を語ることはできない。
今回はスズキ社の工場見学が主たる目的であり、付随してタージ・マハルやアグラ城などの世界遺産にも訪れたが、歴史を学ぶ場としては、事前の学習も不十分であったと言わざるを得ず、また改めて機会をもちたいと感じた。また、カースト制度のことも、おそらく現在のインド社会にあっても切り離せない課題であろうと思われるが、今回の研修では十分に学ぶ場はなかった。こちらもまた機会を改めたい。
学生時代に何度か海外旅行でアジアを訪れ、いずれはインドにも行ってみたいと思っていたところ、年月がすっかり経過してしまったが、思わぬかたちで実現した。今回は広く深いインドのまさに入り口にようやく立ったようなもので、まだまだこれから学ぶことが山のようにあることもよくわかった。こうした機会をいただいた前衆議院議員の鈴木克昌先生と東三河鈴木政経塾に感謝するとともに、シンさんとの再会を楽しみにしながら、筆をおきたい。
<主要参考文献>
上野正樹・佐藤隆広「インドにおける鈴木の競争力:製品特性分析による企業戦略と競争力の探索」『神戸大学経済経営研究所』(2019年3月)
内田康郎「マルチ・スズキにみるインド市場開発に関する戦略事例」富山大学経済学部(2017年12月)
厚生労働省「中国 、インド、インドネシア及びタイにおける解雇法制等」『2016年海外情勢報告』
厚生労働省「アジア4か国の労働施策」『2011~2012年海外情勢報告』
国際協力銀行『インドの投資環境』
琴浦諒「シリーズ・インドの投資関連法制16 インドにおける労務管理(3)」『JCAジャーナル』(2014年2月・第61巻2号)
須貝信一「インド財閥のすべて」中公新書(2011年9月)
鈴木修『俺は、中小企業のおやじ』日本経済新聞出版社(2009年2月)
棚瀬孝雄「インドの労働法制と労働争議」『比較法雑誌』(第49巻第2号(2015年))
パーソル総合研究所『インド 労働法制』(2019年3月)
R.C.バルガバ「スズキのインド戦略―「日本式経営」でトップに立った奇跡のビジネス戦略」中経出版(2006年12月)
*なお、本稿の初出は、メールマガジン「オルタ広場 17号(2019.9.20)」で、本サイトにおいては原文をそのまま掲載しています。